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最高裁判所大法廷 昭和37年(あ)2176号 判決 1965年4月28日

主文

第一審判決中、道路交通取締法違反被告事件に関する部分および原判決中これに対する控訴を棄却した部分を破棄する。

本件を旭川地方裁判所に差し戻す。

理由

検察官井本台吉の上告趣意第一点について。

所論は判例違反を主張するが、その挙示する判例中、昭和二五年(あ)第三四〇九号、同二七年七月二二日当裁判所第三小法廷判決は、少年法二五条一項に基づくいわゆる試験規察の決定に同法四六条の定める効力がないことを示したものであり、また、昭和三六年(あ)第一〇九六号、同年九月二〇日当裁判所第二小法廷決定は、保護処分の対象となつていない事実には右の効力が及ばないことを明らかにしたものであつて、いずれも事案を異にし、本件に適切でない。それ故、所論判例違反の主張は前提を欠き、上告適法の理由に当らない。

同第二点について。

本件公訴事実中道路交通取締法違反の事実につき、旭川家庭裁判所において、事案が罪とならない等の理由により少年法一九条一項に基づく審判不開始の決定がなされたこと、その後被告人が成年に達してから、右の事実につき旭川地方裁判所に公訴が提起されたこと、同地方裁判所は、前記審判不開始決定にいわゆる一事不再理の効力があるとして、右の事実につき免訴の判決をしたことおよび原審においても、この見解を維持して検察官の控訴を棄却する判決をしたことは、いずれも記録および前記各判決によつて明らかである。

ところで、少年法一九条一項に基づく審判不開始の決定は、調査の結果、審判に付することができず、又は審判に付するのが相当でないと認める場合になされるもので、審判に入る前段階の措置ではあるが、これが少年事件に関する終局処分の一つであることはいうまでもない。そして、対象者の死亡、長期疾病、所在不明等審判手続上の障がいを理由とする場合は別として、かかる障がいの存在しないときにこの処分が行なわれるについては、対象とされた非行事実の不存在、犯罪の不成立、要保護性の不存在等事案の実体に関する事実上又は法律上の判断がなされうることも、同条の法意からみて当然である。しかしながら、この場合になされる事実上又は法律上の判断は、他の少年法上の処分が行なわれる場合と同様に、終局において、少年法の所期する少年審判の目的達成のためになされるものであつて、刑事法の所期する刑事裁判の目的達成のためになされるものではない。したがつて、同じく事実又は法律に関する判断であつても、刑事訴訟法において、対審公開の原則の下に、当事者が攻撃防御を尽くし、厳格な証拠調を経た上で、刑罰権の存否を決定するためになされる事実認定又は法律判断とは、その手続を異にする。それ故、本件の如く審判不開始の決定が事案の罪とならないことを理由とするものであつても、これを刑事訴訟における無罪の判決と同視すべきではなく、これに対する不服申立の方法がないからといつて、そのの判断に刑事訴訟におけるいわゆる既判力が生ずることはないものといわなければならない。また、憲法三九条前段にいう「無罪とされた行為」とは、刑事訴訟における確定裁判によつて無罪の判断を受けた行為を指すものと解すべきであるから、右の解釈が憲法のこの条項に抵触するものでないことも明らかである。

もつとも、少年法四六条は、罪を犯した少年に対して同法二四条一項の保護処分がなされたときは、その審判を経た事件について刑事訴追をし、又は審判に付することができない旨規定しているが、右は、保護処分が身体の自由を制約する場合がある点において刑罰類似の性質を有することや、対象となつた犯罪事実が特定されていること等を考慮して特別に設けられた規定であつて、一般に少年法上の終局処分が刑事訴訟における既判力を生ずべきことを当然の前提とし、単に注意的に起訴、付審判の禁止を規定した趣旨のものとは解されない。すなわち、少年法四六条は、同法二四条一項の保護処分がなされた場合にかぎり適用される規定であつて、その他の少年法上の処分にも同様の効力があると解する根拠にはなりえないものというべきである。

もちろん、家庭裁判所において審判不開始決定がなされた事実について、その少年が成人に達する前に公訴を提起することは許されないが、それは少年法二〇条の規定による検察官送致決定がなされていないためであつて、対象者が成年に達した後は、かかる少年法による手続上の制限は存しないから、検察官はその事実につき適法に公訴を提起しうること、一般の刑事事件と異なるところはないものと解するのが正当である。そして、このような場合における起訴については、検察官に対し、家庭裁判所が少年事件についてした要保護性の存否に関する判断を十分考慮した上適切妥当な裁量をするように期待すべきである。

以上の理由により、本件旭川家庭裁判所における審判不開始の決定は、その判断に既判力を生ずべき刑事訴訟における確定判決と解することはできず、その他これに一事不再理の効力を認めるべき法律上の根拠は存在しない。それ故、本件道路交通取締法違反の事実につき、右決定のあつたことをもつて確定判決を経たものと解し、刑訴法三三七条一号を準用して免訴の言渡をした第一審判決およびこれを是認した原判決には、法令の解釈適用を誤つた違法があるとともに、右判断をするについて憲法三九条をもその根拠の一つとしている点は右憲法の法条の解釈を誤つているものというべきであり、この違法および憲法解釈の誤が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

よつて、刑訴法四一〇条一項本文により、第一審判決中、道路交通取締法違反被告事件に関する部分および原判決中これに対する控訴を棄却した部分を破棄し、さらに審理を遂げさせるため本件を第一審裁判所である旭川地方裁判所に差し戻すべきものとし、同四一三条本文により主文のとおり判決する。

この判決は裁判官奥野健一の補足意見、同山田作之助、同柏原語六、同田中二郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官奥野健一の補足意見は次のとおりである。

少年法一九条一項の審判不開始決定は、読んで字の如く、単に審判を開始しない旨の、いわば門前払的な処分であつて、少年に関する犯罪の有無についての実体的判断をしているものではない。勿論審判不開始の決定をなす前提として、家庭裁判所は少年の非行事実の有無、犯罪の成否、要保護性の有無等に関して、事実上調査を行うことがあるとしても、調査の結果なされる審判不開始決定自体は、何ら犯罪の不存在、無罪等の実体的判断をしたものとして法律上の効力を有するものではないと考える。従つて、右決定は憲法三九条の「無罪とされた」ものでもなく、「刑事上の責任を問われ」たものでもない。それ故、右不開始決定があつたからといつて、憲法三九条の適用があるものではない。

これに反して、少年法二四条一項の保護処分は、審判を開始したうえ、証拠調をなし、少年が罪を犯したものと認めた場合に、罪となるべき事実及びその事実に適用すべき法令を示して、これをなすのであつて(少年審判規則三六条)、有罪判決に類する手続が要求されている。かつ、保護処分は実質上も少年の身体の自由を制約する場合がある点において、刑事事件の有罪判決と類似するが故に、同法四六条は保護処分がなされた事件に限つて刑事訴追をすることを禁止しているのである。

叙上の点にかんがみ、法は保護処分と全く法律上の性質を異にする不開始決定については、刑事訴追を禁止する旨の規定を設けなかつたものであり、また解釈上も保護処分についてのみ規定する刑事訴追禁止規定を、右不開始決定に準用又は類推適用する実質上の合理的理由もないのであるから、明文のない以上反対解釈を採るべきことは当然である。

尤も保護処分といえども、刑事訴訟と性格、目的を異にし、少年の非行事実の認定の外に少年の改善に妥当な保護的措置を判定することをその使命とするものであるから、保護処分を刑事裁判と全然同視することは許されない。従つて、保護処分に刑事裁判と同様に、当然憲法三九条の適用があるものと解することは正当ではない。少年法四六条が、保護処分がなされた事件について刑事訴追を禁止したのは、憲法上の当然の要請というよりは、立法政策の結果であつて、かかる明文が設けられたことによつて、初めて保護処分に一事不再理の効力が賦与されたものと解すべきである。従つて、保護処分にかかる犯罪事実につき、この規定に反して公訴が提起された場合には裁判所が刑訴法三三七条一号により免訴すべきではなく、同法三三八条四号により公訴を棄却すべきであろう。

然りとすれば、審判不開始の決定については、更に一層強き理由により、憲法三九条の類推適用を否定すべきである。

裁判官山田作之助の反対意見は次のとおりである。

一、多数意見中にもあるように、少年法一九条一項に基づく、審判不開始の決定は、少年事件に関する終局処分の一つであることはいうまでもなく、また対象者の死亡、所在不明等審判手続上の障害を理由とする場合は別として、かかる障害が存在しない場合に、家庭裁判所(裁判所の判事を意味する)がこの決定をなすに当つては、対象とされた非行事実の存否、犯罪の成否、要保護性の有無、刑事訴追価値の有無等、事案の実体についての事実上、法律上の諸点について調査、判断をなしたる上、この少年を、この事案について刑事訴追に付することが適当なりや否や、これを不問に付することにより、一般社会殊に被害者等に与える影響如何等、諸般の事情を比較考慮して得た裁判官の心証に基づき、この事案についてこの少年を刑事訴追を受けしむることは適当でないとして、ここに審判不開始(刑事訴追、保護処分等にも付せず、そのまま放免する趣旨)の決定を与えたのである。換言すれば、この決定の意味するものは、本件事案について、この少年を刑事訴追を受けさせないとの裁判所の意思を表示したものに外ならない。

二、そして、わたくしは、家庭裁判所の判事がなしたこの決定は、国家機関たる家庭裁判所の判事が国家の公権的立場においてなした裁判であるから、この決定が確定した以上、何人もこの決定の趣旨に反するが如き所為をなすことは許されざるものというべきであり、このことは、裁判官のなした裁判を変更し得るのはひとり裁判官にのみに許されている(それとも多くの場合上級裁判所の裁判官が法律上の手続に従つて始めてなし得るのである)事実に徴し明かであり、また、裁判官が公権的立場においてその権限に基づきなした裁判について、他の国家機関がその裁判の趣旨を没却するが如き所為をなすことは、公的法律生活の安定という点よりするも、許さるべきではないと考える。右趣旨から、少年法四六条が、犯罪少きに対して保護処分決定がなされたときは、その審判を経た事件については刑事訴追が許されないと規定しているのは当然であつて、この規定は、家庭裁判所が少年事件についてしたその他の決定についても当然準用さるべきである。

三、また、憲法三九条は、その後段において「何人も、……同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」と規定しており、右規定の趣旨について、当裁判所大法廷は、「何人も同じ犯行について二度以上罪の有無に関する裁判を受ける危険に曝さるべきものではないという、根本思想に基くことは言うをまたぬ。」としている(昭和二四年新(れ)第二二号、昭和二五年九月二七日大法廷判決、刑集四巻九号一八〇五頁)。右は、所謂二重の危険の禁止を意味しているものであり、すなわち「何人も裁判により放免されたと処罰されたとを問わず、同一の犯罪に対して再び審理されることはない」とする意と解すべきで、その目的とする処は刑事訴訟法に所謂一事不再理といわれているものより広き意義に解さるべく、従つて所謂危険の発生は必ずしも確定判決を受けることを意味するものではない。はたしてしからば、この少年は、一度家庭裁判所において本件事案について審判不開始の決定により放免されたものである(すなわち一度既に刑事上の裁判を受ける危険にさらされたものである)から、その後において同一事案について、刑事訴追を受けるということは、前示大法廷の判決の趣旨よりしても到底許さるべきではない。

それ故、原裁判所が、本件事案につき、実体的判断を経て審判不開始決定がなされた事案についてはその少年が成年となつた後においても刑事訴追は許されないとして、本件公許事実を免訴とした一審判決を維持したのは正当であり、これを非とする本件上告は理由がない。

裁判官柏原語六の反対意見は次のとおりである。

いわゆる一事不再理の効力は、裁判の法的安定性の要請を基礎として、一度裁判を経た事件については、重ねて刑事訴追をし、または家庭裁判所の審判に付することが出来ないこととするものである。従つて、この効力は必ずしも刑事裁判における実体判決についてだけでなく、事件の実体について審理し、確定的な判断を示すすべての裁判について、法律上当然に生ずるものといわなければならない。

少年法一九条一項の審判不開始決定は、少年の死亡その他審判条件の不存在のゆえに、審判に付することが出来ない場合はともかくも、家庭裁判所が調査の結果、非行事実が罪とならず、又は罪となつても事案が軽微であるとか或は非行少年の家庭の調整等により審判に付することが相当でないと認めて決定した事実については、一事不再理の効力を生ずるものと解することが妥当である。

多数意見は、少年審判の目的と、刑事裁判の目的の相違、その手続の相違、非行事実が罪とならないことを理由とする審判不開始決定と、無罪判決の相違などをあげて、少年保護事件における決定には、少年法四六条によりて認められた場合の外は、一事不再理の効力はないといつている。たしかに少年審判と刑事裁判とは、その目的や手続を異にするものであり、それにともなつて各種の差異があることは、多数意見のいうとおりである。然しながら両者とも犯罪現象に対する国家の対策の一つであり、しかも司法機関である裁判所が、証拠にもとづいて、事実及法律に関する判断をしていることには、変りはないのである。ただその対象者が一方は心身の発達の段階中にあつて、思慮浅く判断力に乏しい少年であるのに対し、他方が成年である点において、その方策を異にしているのである。多数意見からは一事不再理の効力について両者に区別を設ける合理的な根拠はついに見出すことが出来ないのである。問題は少年法四六条を如何に理解するかということである。これを形式的に考えると、同条は多数意見がいうように保護処分が身体の自由を制約する場合があることや、対象となる犯罪事実が特定されることから、特別に設けられた規定であるともいえないことはないであろう。然し保護処分決定も前述の理由によつて、法律上当然一事不再理の効力をもつものであるが、ただ保護処分は、不開始決定や不処分決定がその執行を要しないのと異り、長期間に亘る執行を必要とし、しかもその間保護処分の実績があがらないこともありうるので、かような場合さらにより強力な保護処分若くは刑事処分をすることが出来るかという疑いが起ることを慮り、いつたん保護処分の決定をした以上、その後の段階における成績のいかんに拘らず、さらに家庭裁判所の審判に付したり、刑事訴追をすることができないことを注意的に規定したに過ぎないものである。

以上のとおりであつて、結論において右と同趣旨の原判決は正当で、本件上告は理由がないから棄却すべきである。

裁判官田中二郎の反対意見は次のとおりである。

少年法一九条一項に基づき、家庭裁判所が事件の実体について調査し判断した結果、審判不開始の決定をした場合においては、その不開始決定には一事不再理又はそれに準ずる効力を認めるべきであつて、同一事件について、その後被告人が成年に達したからといつて、改めて公訴を提起することは許されないと解するのが相当である。故に、検察官の控訴を棄却した原判決は正当であり、これに対する検察官の上告は棄却すべきものと考える。その理由は、次のとおりである。

一、まず、審判不開始決定の意義について考えてみよう。審判不開始の決定をする場合にも、その理由及び手続は必ずしも一様ではない。少年の死亡、所在不明等のために、事件の実体について何ら調査することなく決定を下すこともある。しかし、また、事件の実体について慎重な調査を遂げ、そのうえで、少年の保護上適切な教育的保護的措置を講じ、事件の性質によつては、丁重なケース・ワーク活動を行なうことにしている例も少なくない。少なくともこのように事件の実体について調査が行なわれたうえで、審判不開始の決定がなされた場合においては、この家庭裁判所の判事がした公権的な決定に有権性と最終性を認めるだけの十分な合理的根拠があると、私は考える。

そもそも、少年法が少年犯罪について保護優先主義及び家庭裁判所先議主義をとつているのは、少年犯罪の特殊性に鑑み、人間的に未成熟な少年の教育的保護的措置による改過遷善を企図し、保護処分を相当とするか刑事処分を相当とするかの判断を、少年の非行について深い認識と豊かな経験をもち、そのための科学調査機構を備えた家庭裁判所の判断に委ねることを妥当としたためである。このような見地から、家庭裁判所の判断を検察官の判断に優先させ、家庭裁判所から検察官に逆送された場合にはじめて検察官は公訴を提起することができるものとしているのである。従つて、家庭裁判所が刑事処分を不相当と認めて、検察官へ逆送しない場合においては、検察官は公訴を提起することはできないはずである。それにもかかわらず、少年が成年に達した途端に、少年時代の非行について、一旦、家庭裁判所の下した実体的判断を無視して公訴を提起することができるものと解することは、如何にも不条理であり、少年犯罪に関する保護処分優先主義及び家庭裁判所先議主義を否定し、家庭裁判所の地位と役割を危殆に陥れるものといわなくてはならない。

二、家庭裁判所がその専門的な知識と経験に基づき事件の実体について調査し判断した結果、審判不開始の決定をした場合には、さきに述べたように、教育的保護的措置を伴うのが本来の建前であるから、同一の事犯について重ねて公訴を提起されることなく、公開の裁判に曝されることもないということによつて、すなわち、一事不再理又はこれに準ずる効力が認められることによつて、はじめて少年の改過遷善が期待される。一旦不開始決定がされたが、少年が成年に達した途端に、刑事訴追がなされるかも知れないという不安な状態において、どうして少年をして更生の途を歩ませることができるであろうか。そのような考え方のもとでは、少年法の理想は到底達成することができないであろう。

一般の行政処分についても、少なくとも相手方に権利利益を付与するものについては、自由な取消又は変更は許されないというのが、現在の通説になつている。これは、もちろん、一事不再理とは呼んでいないが、法的安定を保護するという法の理想に基づく一つの確たる理論として、一般の承認するところである。このような法の理想は、審判不開始決定のごとき行為についてこそ十分に実現されるべきものであつて、必ずしも法の明文の根拠を必要としないものと考えるべきである。

三、少年法四六条は、罪を犯した少年に対して二四条一項の保護処分がなされた場合にのみ一事不再理の効力が生ずることを規定しているようにみえる。しかし、そのことから直ちに、審判不開始・不処分の決定等に一事不再理の効力を否定するのは、あまりにも字句に捉われた解釈といわなくてはならぬ。そのような解釈のもとでは、いわゆる触法少年や虞犯少年に対して保護処分がなされた場合等については、一事不再理の効力について何らの規定がないため、一事不再理の効力を否定せざるを得ないことになるが、果してそう解釈すべきものであろうか。これらの点をあわせ考えると、少年法四六条の規定は、柏原裁判官の反対意見にも述べられているように、むしろ注意的な規定と解すべきであつて、家庭裁判所が事件の実体について調査し判断をしたような場合には、法的安定の理想に照らし、その判断の有権性を尊重し、その最終性を認めるのが妥当である。この意味において、検察官としては、少年が少年時代に犯した非行については、家庭裁判所の調査判断の結果に拘束されるべきもので、逆送の手続のとられない限り、刑事訴追をすることは許されないと解すべきである。

四、更にまた、憲法三九条に「何人も実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」と定めている趣旨は、基本的人権の尊重と法的安定の保護の目的に出でたもので、既に無罪とされた行為というのは、必ずしも無罪の確定判決を受けた場合というように限定して解釈すべきではなく、それに準ずる裁判所の判断を含むものと解釈すべき余地があり、審判の不開始決定は、「何もしない決定」とみるべきではなく、それには教育的保護的措置が伴うのが通例であることを考えると、同一犯罪について重ねて刑事訴追をするのは、重ねて刑事上の責任を問うことになる疑いがないとはいえない。従つて、事件の実体について調査し、判断した結果なされた審判不開始決定があつた後、検察官が少年の成年に達するのを待つて刑事訴追をなすがごときは、この憲法の精神に反することともなりかねないと考える。

以上のような理由に基づいて、私は、本件判決には賛成しがたい。(裁判長裁判官横田喜三郎 裁判官入江俊郎 奥野健一 石坂修一 山田作之助 五鬼上堅磐 横田正俊 草鹿浅之介 城戸芳彦 石田和外 柏原語六 田中二郎 松田二郎 岩田誠)

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